20.  新樹とその守護霊(その1)

 私が新樹に向かい、彼の本来の守護霊について初めて問いを発したのは、彼と私の間に通信の途が開けてから、まだいくらも経たない昭和4年7月22日のことでした。

 問「お前にも、きっと守護霊がついている筈だが……。つまりお前を指導してくださる後見人みたいな方が……。」
 答「つ……ついています……。」 当時は通信がまだ不完全で、やっと言葉がつながり出した時でした。「5……5人ついています。」
 問「5人……大へん大勢ついているのだね……。いったい一人に守護霊が、そんなに大勢ついているものだろうか……。」
 私がちょっと不審の眉をひそめて、独り言のようにそんなことを申しました。その時新樹からは、何とも答がありませんでしたが、ただ妻の霊眼には、漢字で「五」の字が極めて鮮明に映りました。

 越えて7月25日にも、私は新樹に向かって、同じく守護霊問題を持ち出しました。その時の返答で、現在彼についている5名の守護霊は、死後、産土神から特につけられた臨時の指導者であり、彼の本来の守護霊ではないことが明らかになりました。
 「自分の守護霊のことを聞かれると、僕はなんだか悲しくなるから、その話はしばらく止めてください……。」 新樹はそう言って、これに関する談話を避けるのでした。
 そう言われては私も無理に問い詰めることもならず、いつも奥歯にものの挟まったような気持で、とうとう約1年間も、この問題を未解決のまま打ち棄てておきました。
 そうするうちに、どうしても彼の守護霊を突きとめなければ、収まりがつかないことが、少しずつ起こってきました。とりわけ私に、あくまでもこの問題を追及させる決心を起こさせたのは、昭和5年6月14日の夜、「東京心霊科学協会」の事務室で行われた亀井霊媒の交霊会に、新樹の顔が現われたことでした。それはあまり鮮明な物質化現象ではありませんでしたが、しかし亀井霊媒の頭上約一尺ほどの辺りに、髣髴として現われたのは、まさしく新樹の生前の顔に相違ありませんでした。それは私自身よりも、むしろ立合人中の二、三人が承認するところでした。

 で、その翌日、私は早速、新樹を妻の体に呼びだして、その事実の有無を確かめました。ところが意外にも、新樹は断乎としてその事実を否定しました。――
 「僕、亀井という男の交霊会などに、ただの一度も出現した覚えはありません。僕はお母さんの体以外には、絶対にかからないことにしています……。」
 これを聞いて、私は少なからず疑惑にとざされました。あれが新樹の仕業でないとすれば、一体誰がそんな真似をしたのか? 亀井霊媒の背後に働いている、印度人モゴールの悪戯か? それとも新樹の背後に控えて、彼の行動を助けている 5人の指導者達の仕業か? それとも又彼の本来の守護霊の所作か?
 私は直ちに、あらん限りの手段を講じて、その詮索にあたりました。ここで一々その手続きを述べることは、あまりにも煩瑣にわたるおそれがありますから、省いておきますが、とにかく私が最後に到達した見込みは、どうあっても、それは新樹の本来の守護霊の仕業に相違あるまいということでした。
 「これはどうしても、新樹の守護霊を呼び出して、聞いてみなければならない」と私は躍起になりました。
 「新樹は、守護霊の話を持ち出すと、悲しくなると言って、なるべく避ける気味だが、彼も幽界へ入つてからすでに1年以上になる。いつまでもそんな感傷気分にひたつているべきでもあるまい。よし取りあえず、妻の守護霊に頼んで、ひとつ新樹の守護霊に逢って貰ってみよう……。」

 そこで7月2日の夜、私は妻の守護霊を招いてこのことを述べると、先方は案外気軽に、私の注文を引き受けてくれました。――
 「承知いたしました。早速これから新樹の守護霊に会って、いろいろ訊いてみることにしましょう。仔細はいずれ後ほどお知らせします。」
 約10分間ほど経過すると、妻の守護霊は再び戻って来て、いかにも満足そうに、その会見の次第を報告するのでした。――
 「やはりあなたのお見込みどおり、新樹に代わって、これまでいろいろのことをしたのは、守護霊の仕業だったそうでございます。これまであの方は、仔細あって裏面に隠れ、わざと新樹にも合わずにいましたが、時節がきたので、今後は直接新樹の世話をすると申して居ります……。」
 一体その守護霊という方は、どんな方ですか?」と私は少し急き込み気味に訊ねました。やはり人霊ですか?」
 「なかなか立派な、気性の優しい方でございますよ……。もちろん元は私達と同じく人間でございます。しかし私などより、ずっと後の時代の方で、生れた時の年号はたしか享保、とか申すそうでございます。あの方の経歴について、私もひと通りのことは聞いて存じておりますが、私から申し上げたのでは面白くございません。どうぞ直接ご本人をお呼び出しになってお聞きくださいませ……。」
 「むろん妻の体にかかれるのでしょうね?」
 「それはかかれます。しかしご本人は、まだ一度も人間の体にかかって通信したことがないので、少々心配だと申しております。まあやってご覧なさいませ。」
 「新樹は守護霊のことを言われるのが、何やらつらいようなことを申しておりましたが、別に差し支えはないでしょうね。何ならあなたから、一言新樹によく言いきかせておいていただきたいのですが……。」
 「よろしゅうございます。なに時節が来たのですから、もう心配はございません。これからあの子は、だんだん自分の本当の守護霊と一緒になって、働くことになるでしょう。」
 「時に」、と私は一考して、「現世に居た時の守護霊の姓名は、何というのでしょうね? 呼び出すときに姓名が判っていないと、何やら勝手が悪いのですが……。」
 「姓名でございますか……。承知いたしました。しかし言葉で言ったのでは、もしも間違うといけませんから、この女の眼に見せておくことにしましょう……。」
 そう言ってから、ものの1分とも過ぎない時に、妻の閉じた眼の裏には、白地に極めてくっきりと黒く浮き上がって、
 「佐伯信光」
 という4文字が現われたのでした。

    浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 1-6(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 新樹氏の守護霊が5人もついていることに和三郎先生が不審をもちますと、多慶子夫人の霊眼に、漢字で「五」の字が極めて鮮明に映しだされたというのは、興味深く思われます。これらの守護霊は、いわば臨時の指導者で、多慶子夫人の守護霊(子桜姫)に頼んで本来の守護霊に逢ってもらったというのには感嘆させられます。

 小桜姫は和三郎先生から依頼されると、10分ほどで新樹氏の本来の守護霊と逢ってきて、その人となりなどを伝えていますが、霊界通信も、条件が揃えば、そんなことまでも可能であることを教えてくれています。現世に居た時の守護霊の姓名が「佐伯信光」で、それを多慶子夫人の閉じた眼の裏に、白地に黒く浮き上がらせたというのは、まさに神業というべきでしょうか。
(2013.11.08)



  21. 新樹とその守護霊 (その2)

 私がいよいよ新樹の守護霊を呼び出したのは、それから数日を過ぎた7月8日の午前でした。つぎにその日の問答を、ありのままに記述することにいたします。

 問「あなたのお名前は……。あなたは新樹の守護霊さんですか?」
 例の如く私は潮時をみて、そう切り出しました。
 答「わたくしは……わたくしは……わたくしは……」
 先方は非常に興奮の模様で、数回同一文句を繰り返しました。
 唾液が喉につかえて、うまく口がきけない様子でした。それでもようやく、
 「わたくしは……佐伯信光……と申すものでございます。」
 問「いや、よくおかかりくださいました。あなた様が新樹の守護霊さんだったことは、近頃ようやく承知いたしました。あの子の肉身の父として、厚くお礼を申上げます。― いろいろとお訊きしたいと思うことがございまして、今回お呼び立ていたしましたが、何卒お差支えない限りは、ご通信を願いたいもので……。」
 答「承知いたしました。が、何分にも私はまだ弱輩の身で、果たして充分の通信をお送りすることができますかどうか、いささか心懸りでございます。新樹の守護霊といたしましても、こんな未熟のものでございますから、甚だ力量が不足勝ちで……最愛のお子さまを、ああいうことに致しまして、私としましても、まことに面目次第もないことでございまして……。」
 この間、涙声になって、言葉がしばらくしどろもどろになりましたが、やっと気を取り直したふうで、
 「しかし、これもどうぞ定まった天命とお思いになり、お諦めをお願いいたします。私も同様に、早くこの世を去りましたもので、従ってさしたる修行を積んだものではございません。しかし今後は、充分新樹を助けて、活動をいたしまして、ご研究のお手伝いをし、せめてもの埋め合わせを致したく考えております」
 問「それでは早速伺いますが、一体あなたは、どちらのお方で、またいつ頃の時代にお生れでしたか?」
 答「私は名古屋の藩士で……。身分は大したものでもございません。生れた年は、たしか享保5年と記憶しますが……。一体こちらでは、年代などは一向用事のないもので、従ってそれ等の記憶は、だんだん薄らいでまいりますが、たしか享保5年であったと存じます。そして死没いたしましたのが寛延元年、私が29歳の時でございます……。」
 問「あなたはその間、ずっと名古屋にお住いでしたか?」
 答「いや、名古屋に居住致しましたのは23歳の時まででございます。元来私は幼少の時から、少しばかり文学を好みまして、最初は文学で身を立てんと致しましたが、そのうちだんだんと音楽の趣味が加わり、むしろそちらの方面で身を立てようと心得まして、それには名古屋では、思う通りの師にも就けませんにより、江戸へ上ったような次第でございました。」
 問「音楽はどんな種類のものをおやりなされたか?」
 答「笛でございます。江戸へ行ってからは、その道のすぐれた師につき、いろいろ苦心を重ねましたが、お恥かしいことには、音楽者として充分上達もせぬ中に、空しく早世してしまい、私としても、残念至極に存じました。で、新樹の守護霊を命じられた時には、あの子を音楽の方で身を立てさせようかとも、一時は考えたこともございますが、どうもあの子は、私ほど音楽が好きではございませんでした。また、時代も時代でございますから、とうとう断念して、あまり音楽を勧めないことにしました。それでも私の感化で、多少は音楽が好きであったように見受けました……。」
 問「あの子の音楽趣味は、あなたの感化だったのですか。」
 と私もいささかびっくりして叫びました。
 「新樹はもともと多趣味の男で、文学も好き、絵画も好き、運動も好きという按配でしたが、わけても絵画に対しては、ちょっと素人離れのする位の理解と趣味とをもち、殊にハーモニカの吹奏は、手に入っていました。守護霊と本人との関係は、そんなにも密接なものと見えますね」
 答「左様でござりまする。人間の性格趣味の約七割位は、その人の背後に控えている守護霊の感化でござりまする。で、新樹という人物は、よほどの程度まで私に似ておりましたが、ただあの子の方が、体格ははるかに私よりも優れていたように思いました。あの子が、よもやあのように早世しようとは、夢にも思いませんでござりました・・・・・。」
 問「するとあなたにも、当人の死はやはりおわかりになりませんでしたか?」
 答「死ということは、われわれ守護霊にも、その間際まで教えられないのが通例でございます。ずっと上の方の神さまにはおわかりになっていられるでございましょうが、われわれの境涯では、とてもわかるものでございません……。」

  浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 6-10(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 和三郎先生が新樹氏の本来の守護霊である佐伯信光氏との初めての会話で、「あの子の肉身の父として厚くお礼を申上げます」などと挨拶されているのには感動を覚えます。人間の性格や趣味の7割くらいは、守護霊の影響で、笛を学んでいた佐伯信光氏が新樹氏を一時は、音楽の方で身を立てさせようかとも考えたこともあったと述懐していますが、おそらく私たちも同じように、守護霊の影響を受けながらこの世に生きているのでしょう。

 新樹氏の早世は、守護霊の領域を超えた問題で、守護霊でも、死の間際まで教えられないのが通例であると述べられています。佐伯信光氏が守護霊としての責任を感じて、「最愛のお子さまを、ああいうことに致しまして」まことに面目次第もないとお詫びしていますが、死というのはやはり、「ずっと上の方の神さま」だけが決めておられる問題であることを、ここでも教えられています。
(2013.11.15)

 

  22. 新樹とその守護霊 (その3)

 問「いや、話題が大分とんでもない方面へ飛びました。後へ戻って、少しあなたのご経歴を伺わせてください。――あなたはただ音楽の修行をなされただけで、どちらにも仕官というようなことはなさらなかったのですか?」
 答「いや、未熟ながらも、その道で将軍家に仕えました。」
 間「ご家庭は作られましたか?」
 答「生涯に一度も妻帯は致しません。」
 問「あなたの父母兄弟は?」
 答「私の両親は早く亡くなりましたので、私は幼時の頃から、親戚の手で育ちました。兄弟は三人、一番上が姉、その次が兄、その兄が家督を継ぎました。私は三番目の末子でございました。」
 問「あなたの信仰は?」
 答「私の家では代々神道でありましたため、私も神さまを信仰いたしておりましたが、別にこれぞという深い理解をもっていたわけではございません……。」
 問「あなた方の時代の学問は?」
 答「主に漢学でございます。それに少しばかり国学の方を加えた位のもので……。全体、私はあまり体が丈夫な方でございませんので、充分身を入れて螢雪の苦を積むというほどの修行は致しませんでした。」
 問「あなたはどんな病気でお亡くなりになられましたか?」
 答「平常から私は心臓が弱かったので、別に床に就いて寝るようなこともありませんでしたが、どうも他の方々のように、活発に働くことができなかったのです。私の命取りの病気も、結局その心臓でした。が、その当時私は急死したらしく、少しもその際の記憶が残っておりません。どのくらい経って正気がついたものか、私にはとんとわかっておりません。初めて幽界で気がつきました時は、丁度夜が明けて、眼が覚めたのではないかと思いました。」
 問「どうして死んだという自覚ができましたか?」
 答「私の守護霊さま・・・・・その方はいつも40くらいの年輩にお見受けされる方でありますが、その方がいろいろ私の面倒を見てくださいましたので、すぐに自分は死んで、異った世界に来たのだな、ということがわかりました…‥。」
 間「その後幽界に於けるあなたのご修行はどんなものです?」
 答「わからんことがありますると、みなその守護霊さまに伺います。こちらで一番の難問題は、やはり執着を棄てることでございます。私としても随分つらい、悲しいことがございましたが、一生懸命に修行によって、それを忘れるように努め、只今では少しは汚ない念慮が失せてまいりました。これでも人の守護霊となりますのには、よほど心をしっかりともって、向上の心掛けがないとなりませんもので……。」
 問「それは大きに左様でしょう。――あなたはそちらでどんな住宅にお住みになられています?」
 答「こちらの住宅というものは、御承知の通り、本人の性情に合ったものでございます。で、私の住宅はやはり笛の響きがうまく立つような、天井の高い作りで、……別に装飾などの必要はありませんが、ただ天井が高くて、部屋も相当広くないと、響きが立ちませんので、その点だけは充分注意して造られております。私には山水の景色だの、贅沢な装飾だのというものは少しも用事がございません。その点新樹の住宅と同様で、ただ私の住宅の方が、ずっと広々としております……。」
 問「そうすると、あなたは幽界へ行かれてからも、盛んに笛をお吹きなさるか?」
 答「時々は一心不乱に笛を吹くこともございますが、ふとした調子で、全くやらなくなることもございます。こんな道楽ばかりしていてはならないというような気がしまして、しばらくは全く笛などはなきものにしまして、静坐して精神統一の修行に浸るのです。それを致しませんと、決して向上ができませんので……。」
 問「一体あなたは、新樹の幾歳の時から守護霊になられましたか?」
 答「あの子が6歳か7歳かの時と思います。」
 間「なぁーるほど!」と、私は思わず感歎の声を放ちました。
 「考えてみると、あの子の幼少の頃はかなり乱暴な、どちらかというと、軍人向きの性質のようにみえました。ところが、だんだん生長するにつれて、だんだん優しい気性になり、後には絵だの、音楽だのの好きな優男になりました。矢張りあなたの性格趣味が感應していったのでしょうね。」
 答「あるいはそうかもしれません……。前にも申上げました通り、守護霊の感化は、普通六割にも七割にも達するものでございますから……。」

    浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
      潮文社、2010年、pp. 10-13(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 新樹氏の守護霊である佐伯信光氏に対して、和三郎先生がその経歴をいろいろと訊ねていますが、家庭環境、就職、信仰、学問、死亡原因等に至るまで、自然な日本語でこれほどまでに詳細な返事を引き出していることには、やはり驚嘆させられます。佐伯氏が現世に存在していて、和三郎先生と電話で親しく話し合っているかのような錯覚をさえ覚えるくらいです。

 事実は、住んでいる次元も時代も違うわけで、そのことの認識が薄れないようにするためにも 「しばらくは全く笛などはなきものにしまして」というような守護霊の古い言葉遣いは、そのまま残しておくことにしました。佐伯氏は新樹氏が6歳か7歳の時に守護霊になったと言っていますが、そのことに納得して和三郎先生が感嘆の声をあげているのは注目に値すると思います。
(2013.11.22)



  23.  新樹とその守護霊 (その4)

 ここに至って私は、いよいよ日頃心にかかっていた疑惑の中心に触れた質問に取りかかりました。――

 問「さて折入って一つお訊ねしたいのですが、これまで新樹の知らぬことで、蔭からあなたがその代理をつとめられたことがおありですか?」
 答「はい」と守護霊は低い、しかしきっぱりとした語調で、「時々は左様な場合もないではございませぬ。」
 問「第一に、新樹が死んだ当日のあの知らせ――悲しい電報が着く約3時間以前に、大きな火の球が、鶴見の自宅の棟に現われましたが、あれはあなたのお仕業ですか?」
 答「はい、あれは私が致しました。本人にはまだ何の働きもありませんから、ああした場合には、大抵その守護霊が代理をつとめるのでございます。」
 問「それから昨年の3月5日、大連で告別式を営みました際に、洋服をつけた新樹の姿が現われて、脱帽して一々会衆に挨拶するのが、一二の霊視能力者の眼に映じました。あれもあなたのお仕業ですか?」
 答「はい、あれも私が致しました。新樹は大へんよく勤めた子で、上役の方からも、また同僚の方からも非常に信用され、心からその夭折を惜まれました。そのために、その告別式に於いて何の兆もなく、そのまま平凡に終わったとありましては、あまりにわたくしとして可哀想に感じましたので、新樹になりかわりまして、私がひと通りの挨拶をしたのでございます。」
 問「本年6月14日の夜、亀井という霊媒の交霊会を催した時、新樹の姿らしいものが現われましたが、あれは誰の仕業ですか?」
 答「あれも私の致しました事でございます。新樹は一途にただ母親のみにかかりたがっておりますので、印度人の方から出て貰いたいと頼みましても、それはあの子の方に響きません。私にはその事がよくわかって居りますので、代理で姿を現わすことに致しました。モゴールという印度人の頼みも、もともと別に悪意から出たのではなく、むしろ霊界の事を知らせるのには、甚だ有益なことと思われましたので、思い切ってあんな眞似も致しました。私からも早速、新樹にその次第を言いきかせておくことに致しましょう……。」
 問「いや、たいへん事情が明かになり、日頃の疑問が氷解したように感じます。してみると死の直前、直後、またその瞬聞等における死の予兆というものも、大部分は守護霊の働きと考えれば宜しいようで……。」
 答「全部そうだと申すことはできますまいが、その七八割乃至八九割は、守護霊の働きでございます。なお他の方々についても、充分お調べを願います。未熟者の私が申すことに、誤謬がないとは限りませぬから・・・・・・」
 問「最後にもう一つ私の問いにお答えを願います。――何故あなたは、これまで新樹から離れておられたのです?」
 答「それはこういう次第でございます。誰しも帰幽後しばらくの間は、少し厳しくしてやらなければ、なかなか執着が抜け兼ねるもので、それには本人の守護霊よりも、もう少し年代を経た、経験の多い方々が、指導される方が効果があがります。で、誰しも帰幽した当座は、その守護霊が蔭に隠れて、出て来ないのが普通であります。殊に私などは弱輩の身で、そこには必ず手落ちもあるだろうと思いまして、なるべく永く蔭にかくれて居ることに致しました。しかし、時節がまいりまして、いよいよかく名乗りをあげました以上は、最早逃げも隠れも致しませぬ。私の力量の及ぶ限り、お手伝いを致しますから、何卒ご遠慮なくお尋ねしていただきます。そうすることが、新樹の勉強になると同時に、また私の勉強にもなります。また私の力量に及ばぬことは、これまでの老巧な指導者達をはじめ、上級の方々にお尋ねしてお答え致します。いや、こちらの世界の事は、探れば探るほど奥が深く、ちょっとやそっとでは、とてもご返答はできかねるように感じます……。」

 この日の問答は、これで終わりましたが、時計を見ると、約2時間ばかりこの問答にかかっていました。(昭和5、8、31)

  浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 13-17(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 新樹氏が急逝した折、大きな火の球が鶴見の自宅の棟に現われたのは、守護霊の仕業であったというのは興味深く思われます。子供のころ、それに似た経験が私にもありましたが、その頃の私には何かの錯覚であろうとしか考えられませんでした。ここでは、大連で告別式で洋服を着た新樹氏の姿が現われて、会衆に挨拶していたのも守護霊がしたことだと伝えられています。

 このような死の直前、直後、またその瞬聞等における死の予兆というものも、その七、八割乃至八、九割は、守護霊の働きであるというのは、たいへん貴重な情報だと思われます。誰しも帰幽後しばらくの間は、なかなか執着が抜けないので、それには本人の守護霊よりも、もう少し年代を経た、経験の多い方々が、指導にあたるというのにも、いろいろと教えられるような気がいたします。
(2013.11.29)



  24.  乃木さんと語る (その1)

 (一) 彼岸の調査

 死後に於ける霊魂の存続、並に顕幽両界の交通― それがただ一片の理論であったのでは、一向面白くも可笑しくもない話で、大の男がこれに向かって、精魂を打ち込むだけの価値は殆んどないでしょう。で、私としては、一時も早くこの実際的方面の仕事を開拓したいと、年来熱誠をこめて来た訳ですが、それは漸く近頃に至って、平たくいうと、新樹の帰幽によって、いささか解決の曙光が見え出しました。丁度盲目の親が、子供に手を引かれて、とぼとぼと険路を辿るといった姿であります。
 新樹の帰幽が手がかりとなって、先ず動き出したのは彼の母の守護霊であり、次に出動したのは彼白身の守護霊でありました。お蔭で私の為には、そろそろ彼岸との交通機関が整いかけ、どうやら暗中模索の状態から脱することができました。時をおかずに、私は早速日本の霊魂界に向かって探求調査の歩をすすめました。古い所では、千年二千年前に帰幽した歴史上の人物との交通、新しい所では、10年20年前に現界を見棄てた近代人の霊魂との連絡、要するに殆んど八つ当たり式に、霊界の門戸を敲き始めたのであります。無論私でさえも、かくして獲たる通信全部が、全部信頼すべきものであるとは考えておりませんから、単に間接に、文書によって、これに接するだけの機会しか与えられていない一般世間の方々は、恐らく半信半疑の域を脱することが容易にできますまい。殊に近頃日本の出版界では、霊界通信などと銘打てる、眉唾式の偽作が続出しつつある有様ですから……。
 が、徒らに尻込みばかりしていたのでは、こうした新事業の開拓に、目鼻がつく見込みは到底ありませんから、私としてはいかなる疑惑、いかなる嘲笑をも甘受する覚悟で、片端から之を発表していこうかと考えています。現在の私は、幽界に於けるわが愛児の、精一杯の努力が、どこまで心霊研究に貢献しうるかを、ひたすら考えるだけで、その他に思いを及ぼす余裕などはないのであります。
 取りあえず私がここに紹介したいと思うのは、新樹を介して、乃木大将と会見を試みた状況であります。

  浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 17-20(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 いろいろと本には伝えられていても、自分自身で死後の霊魂存続や霊界通信の可能性を証明することは容易ではありませんが、それを和三郎先生は、新樹氏の帰幽を契機にして、多慶子夫人の守護霊と新樹氏の守護霊からの協力により「暗中模索の状態から脱することができた」と書いています。その厳しい道のりが「丁度盲目の親が子供に手を引かれて」と表現されているのにはこころを打たれます。

 「霊界通信などと銘打てる眉唾式の偽作」が世に出回っている状況は、昔も今も変わりはないのでしょう。そのなかで、「いかなる疑惑、いかなる嘲笑をも甘受する党悟」で、新樹氏からの霊界通信を発表していこうと決意された先生のお蔭で、私たちはいま、このような稀有の霊界通信集を手にすることが出来ます。感謝の念を忘れずに、極めて貴重なこれらの霊界からのことばを、一語一語噛みしめていきたいと思います。
(2013.12.06)



  25.  乃木さんと語る (その2)

  (二)新樹の訪問

 私が初めて新樹の守護霊(佐伯信光)に頼んで、乃木さんの近状を調べて貰ったのは昭和5年10月7日の午後でした。すると守護霊からの報告はこうでした。――
 「乃木という方は、もう幽界で立派に自覚して居られます。で、私がこの方と通信を試みるのは、いと易いことでございますが、近代の方との通信は、矢張り乃木さんを知っている新樹の方が、万事につけて好都合であります。私は年代が離れ過ぎているので、少しもその経歴を知らず、質問をするにも、至って勝手がよくない。むろん新樹が乃木さんを訪ねるにしても、私が側に控えて居るには居りますが……。」
 この答は至極道理だと考えられたので、私は佐伯さんに退いてもらい、その代りに新樹を呼び出し、早速乃木さん訪問を命じました。相変わらず幽界の交通は至って敏活で、約10分間後には、早くも新樹の報告に接することができました。新樹はいつもよりずっと緊張した、謹直な態度で語り始めました。――
 只今乃木さんに御目にかかって参りました。乃木さんはもう立派に自覚して居られます。生憎、僕も、生前直接に乃木さんの風貌に接したことは一度もありません。乃木さんが出征された時分に、僕は漸く生れた位のものですからね。従って僕の乃木さんに関する知識は、ただ書物で読んだり、人から聴いたりした位のところです。幸い僕は大連に住んで居ました関係から、乃木さんが畢生の心血をそそがれた旅順口附近の古戦場には、生前何回か行って見ました。そうそう、お父さんが洋行されるために大連に立寄られた時にも、御一緒にあの爾霊山高地に登りましたね・・・・・。僕はあの忠魂碑の前に立った時に、いつも四辺を見回して、さぞこの高地を奪取するのは困難であったろうと、往時の乃木さんを偲んだものです。で僕は、乃木さんに向かってこう切り出しました。――
 「私は浅野新樹と申す名もなき青年で、生前ただの一度も、あなたにお目にかかったことはございませんが、無論あなたの御名前は、子供の時分からよく存じて居ります。殊に大連に住んでいた因縁から、あなたの往年の御苦戦の次第は、つくづく腸にしみて居ります。至って弱輩の身ではありますが、共に幽界の住人としての誼を以てこれからは時々お訪ねさせて戴きます……。」
 僕がそう云うと乃木さんは大へんに歓ばれました。乃木さんは写真で見た通りのお顔で、頭髪も顎鬚も殆んど真っ白で、随分お爺さんですね。和服をつけて、甚だ寛いでは居られましたが、しかし風評のとおり、その態度は謹厳そのもので、甚だ言葉少なにして居られました。
 僕は先ず乃木さんに向かい、戦死したお子さん達の事について、御挨拶を述べました。御自分の子供のことですから、さすが乃木さんもちょっと御容子が変わりました。―― 
 「子供達は 陛下の為に戦死したので、可哀想ではあるが、他の死に方をしたのとは違って、別に心残りはない……。」
 口ではあくまで強いことをおっしゃっては居られました。たしか兄さんの名は勝典、弟の方は保典というのでしたね。全くお気の毒なことでした。だんだん伺ってみると、乃木さんという方は、生前から幾らか霊感のあった方のようでしたね。「子供達の戦死した時には、私にはそれがよく判って居た……。」そう言って居られました。
 それから僕は思い切って、乃木さんに訊ねてみました。――
 「どういう理由であなたは自殺をされました? 尊い生命を、何故あなたは強いてお棄てになられました?」
 僕がそう言っても、乃木さんは容易に返答をされませんでした。重ねて訊ねますと、漸くその重い唇がほころびました。
 「自分の自殺したについては、いろいろの理由がある。二人の子供を亡くしたのも一つの理由ではあるが、他にもっと重大な事情・・・・・つまり、陛下に対し奉りて、何とも申し訳がないと思うことがあったのじゃ。何よりもあの旅順口で、沢山の兵士を失ったこと、それが間断なく、私の魂にこびりついて居たのじゃ。そうする中に、陛下が急に御崩御になられ、私は急に世の中が厭になった……。」
 そう言われるのを聞いた時には、僕も悲しい気分になりました。
 「この方は立派な軍人だが、心の中は何と優しい方であろう。」――僕はしみじみとそう感じました。
 乃木さんは死んでも、まだ忠君愛国の念に充ちていて、よく、明治天皇の御霊の近くへ伺われるようですね……。

  浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 20-23(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 和三郎先生が新樹氏の守護霊に頼んで、乃木さんの近況を調べてもらう、新樹氏に乃木さんとの面会を依頼したら、10分後にはもう乃木さんとの会見の模様が伝えられる、というように、自由自在にしかも瞬間的に連絡が取れていることに驚かされます。爾霊山の忠魂碑の前には、何年か前に、私も立ったことがありました。「山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽」という乃木さんの漢詩が、いまも切実に思い出されます。

 乃木さんはなぜ自殺したのか。通常では決して聞くことのできないその理由を、新樹氏はこうして乃木さんご自身から聞き出しています。二人のお子さんを亡くした上、沢山の兵士を失ったことが間断なく魂にこびりついていたところへ明治天皇が崩御して、「急に世の中が厭になった」と、いうのは重く響く言葉です。自殺の判断は「動機による」ことをシルバー・バーチは述べていますが、乃木さんが霊界で「立派に自覚している」というのは、その辛い経験を「立派に乗り越えている」ということでしょうか。
(2013.12.13)



  26.  乃木さんと語る (その3)

 (三) 新樹を中継として

 新樹の第1回の乃木さん訪問は、大体こんな簡単なものでした。もちろん私としては、他に訊ねたい事がまだ沢山ありますので、重ねて10月の9日午前10時、私は再び新樹を呼び出して、こう申しつけました。――

 「前回はお前一人の訪問であったが、今日はひとつ、父の代理として、乃木さんにこう取次いで貰いたい。――父は前年横須賀で、海軍の教官を勤めて居った浅野というものであるが、ある年、乃木さんが学習院長として、海軍機関学校の卒業式に臨まれた際に、一度お目にかかって居る。その後、故あって官職を辞し、爾来専ら心霊研究に志し、一意専心、幽明の交通を開く事に献身して居る。ついては差支えなき限り、こちらの問いに応じて幽界の状況なり、また感想なりを漏らして戴きたい。無論どなたのお言葉であっても、世間に公表するのには時期尚早と考えられる箇所は、厳秘にしておくだけの覚悟は、充分にもって居るつもりであるから、その点はどうぞお心安く思召して戴きたい……。」
 「承知致しました。」
 新樹はそう答えたきり、しばらく沈黙が続きましたが、やがて再び母の体に戻ってきて復命したのでした。――

 「早速お父さんの言葉を口伝えしました。乃木さんは大変に歓ばれまして、こういう御返答でありました。――」

 それは誠に結構なお仕事で、日本においてもそういう方面の研究が、真面目に着手されたというのは、近頃にない吉報である。自分は大日本帝国については、こちらへ来ても依然として心配して居る。いやむしろ、国家の事以外には、殆んど何事も考えて居ないといってよい。が、自分はまだ幽明間の通信という事については一度も試みたことがなく、どういう風にしてよいか、はっきり判って居ない。のみならず、目下は自分自身の修行に没頭して、それに忙しく、こちらの世界の研究も、一向まだできて居ない。その点はあらかじめお断りしておく。ともかくもできるだけの事は、御返事したい考えであるから、そちらで良きように何なりと質問して貰いたい……。

 「乃木さんは、今日はカーキ色……やや青味のあるカーキ色の軍服を着け、質素な肘掛椅子に腰かけて居られました。乃木さんの居られる周囲は、暗いような所ですが、不思議なことには、乃木さんの身辺は明るいのです。軍服の襟でも、顔の皺でも、皆ちゃーんと判ります。少々普通とは勝手が違って居ます。」

 早速乃木さんと私との間には、新樹を介して問答が交換されることになりました。ほんの一小部分を省き、次に問答のありのままを発表いたします。

   浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 24-26(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 和三郎先生は海軍機関学校の英語教授をしていた時に、来賓として卒業式に来ていた生前の乃木さんと会っていたようです。そのことを乃木さんに伝えてもらって、心霊研究のために協力をお願いしたところ、乃木さんは喜んで引き受けています。地上との交信などはそれまで一度も試みたことがないが、できるだけのことは返事したい、と乃木さんが答えている様子は、この地上での通信と何ら変わらないようです。

 その時の乃木さんがカーキ色の軍服を着ていたのは、生前の思いや生活習慣がまだ強く残っていたからでしょうか。周囲が暗いのに乃木さんの身辺が明るいというのは興味深く思われます。人間は身体と精神の状態を反映させて複雑な波動を出し、それがオーラになるといわれますが、これは乃木さんの霊が明るいオーラを出しているからかもしれません。そして、それは多分、乃木さんの霊格が高いことを意味するのでしょう。
(2013.12.20)



  27. 乃木さんと語る (その4)

  (四) 一 問 一 答

 問「あなたが自殺されて、そちらの世界に目覚められる前後の状況を、なるべく詳しくお話して戴きたい。心霊学の研究の為にも、また心ある日本国民の考慮を促がす上からも、これは甚だ大切な資料と考えられますので……。」
 答「それにはいろいろの事情が・・・・・・(一語一句ぽつりぽつりと考えた口調で)自分は先帝陛下に対し奉りて、相済まぬと思うことも数々あり、――また二人の子供にも別れてしまい、しかも自分は現世に生きながらえて居ても、大して国家の御役に立たない老体となりましたので、――陛下の崩御を伺うと同時に、すっかり覚悟を決めましたが、――さてどういう風にしたらよいか、それにはいろいろと苦心を重ねました。まだなかなか病気が出るような模様もない身体であり、――いかな方法を以てこの世を去ろうか、その事はよくよく考えぬきました。――しかし日本帝国の軍人である以上、潔く自匁して相果てるのが本望であろうと、遂にそう覚悟を決めました。―― 一たん覚悟をきめた上は、後は非常に気持がさっぱりとしたもので、何の事はない、ただ一途に、あの世で先帝陛下にお目にかかり、また蔭ながら日本国を護らねばならぬと、そればかりを考えるようになりました。――自分の覚悟はくわしく静子にも話しました。すると静子の決心も自分と全く同一で、少しも後に生き残ろうという考えはなく、それでは私も御一緒にと、立派な決心をしてくれました。―― 二人の子供を亡くして居るので、世の中が厭になっていたせいもありましょう……。
 さて自匁の時期はいつにしたものかと、いろいろ考えましたが、陛下の御大葬を御見送りした上でなければ、早まった事になりますので、御見送りをしてからという事に決めました……。
 お見送りは自分達の住宅で致しました。それから後の事は、――いかに覚悟はして居たというものの、それはちょっとどうも、私にも話し兼ねる……。
 私は自刃するまでの事はよく知って居るが、その後の事は、しばらく何の記憶ももっておりません。ある期間、私は全く何等の自覚もなしに過ごしました……。
 やや正気づくようになってからも、何やら辺りが暗く、頭脳も朦朧として居て、依然とり留めたことは覚えていません。その中に、誰ともなく私の名を呼ぶものがあったので、はっと眼がさめました。辺りはまだ少し薄暗いが、気分は非常に爽快である。私はその時初めて、自匁してこんな所に来たのかしら、と気がつきました。これで、先帝陛下にも、お目にかかれるであろうと思うと、心の中は嬉しさに充ちました。――が、何を言うにもその当座は、ともすれば夢現の境に彷徨いがちで、ただじっと静かにして居た方が楽でありました……。」
 問「誰ともなくあなたのお名を呼んだと言われましたが、それはどんなお方でございましたか?」
 答「それは装束を附けた立派な方で、その方が私を呼び起してくれました。――私は自分の友達でもあろうかと思って、よく見ましたが、別に友達でもなく、また年齢も少しお若い方なので、これは神さんであろう、と気がつきました。誰でも死んでこの世界に入ると.必ず神さんが来てお世話をしてくださるものだそうで、その後の自分が、何かこうしてほしいと思うと、すぐにその願いが先方に届いて、良いようにしてくださるのじゃ……。」
 問「そのお方はあなたの本来の御守護霊でありますか? それとも、帰幽後一時あなたのお世話をなさる指導者の方でありますか?」
 答「さぁ、そこのところは、まだよく私にも判りません。何れよく取り調べた上で御返答いたしましょう。万一、間違ったことをお答えすると、世の中を誤まりますので……。」
 問「あなたはその後、神として祀られて居られますが、むろん現界からの祈願は、そちらに届いているでしょうね?」
 答「自分は見られる通り、つまらない人間であったにかかわらず、国民が挙って、自分を神に祀ってくだされ、自分としては、ひたすら恐懼して居る次第じゃが、神々の御守護により、及ばずながら、護国の神として大いに働く覚悟で居ります。ただし神社に祀られているといっても、私が常に神社に居るわけではない。神社に参拝者があれば、そちらの祈願が、よくこちらに通ずるだけのものであります。有り難い事には、自分に対して国家守護の祈願をしてくださる方が、近頃だんだん多い・・・・・・。」
 問「あなたには明治大帝の御後を慕われて、自刃されたのでありますが、その事について差支えなき限り、そちらの御模様をお漏らしくださいませんでしょうか?」
 答「畏れ多い事でありますが、――先帝陛下には、御崩御以来、まだ安らかにお眠り遊ばされておいでのように、あの装束を召された方から申しきかされて居ります。それで、自分は常に陛下の御霊のお側近くには伺候いたしますが、折角御やすみの砌を、われわれ風情のものが、無躾にお言葉をかけ参らせることも、あまりに畏れ多い次第と考え、なるべく差控えて居る次第で……。すべてこちらの模様は、現世で考えていたところとは、いささか趣を異にしているところがあるものじゃ……。」
 問「静子夫人、また戦死された勝典、保典のお二人には、そちらで、すでにお逢いになられましたか?」
 答「逢ったというわけではないが、静子とは音信を致して居ります。あれは私よりは少し遅れて眼が覚めた模様で、こちらで思うことも、またあちらで考えることも、みな互いによく通じます。女性のことだから、やはり子供の事など思っているようで……。二人の子供達は、まだ充分に眼がさめておらんと見えまして、これまでに一向通信をしておりません……。」
 問「あなたはお墓とお宮と、両方をお持ちになって居られる方であるから、是非お伺いしたいと思いますが、お宮とお墓とは、どこがどう違いますか?  これは社会風教の上に、重大な関係がありますから、篤と御勘考の上にて御返答を願いたいと思います。」
 答「墓と宮とは、そりぁ大分わけが違います。――が、どの点が違うかと言われると、私も少々返答に困る……。次回までによく考えておくことにしましょう。――今日はこれだけにしておいてもらいたい。」

 その日の問答は、大体これで終わりました。この問答の間、新樹は乃木さんと私との中間に立って、非常によく仲介につとめ、乃木さんの言葉を取次ぐ時などは、ある程度まで、乃木さんの風格を髣髴せしめるほど、緊張し切って居ました。

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 26-31(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

  和三郎先生が新樹氏の守護霊である佐伯信光氏に頼んで乃木さんの消息を調べてもらったのが、昭和5年(1930年)10月7日のことでした。それから間もなく、乃木さんとの問答が始まっています。明治天皇の大葬が行われたのは明治45年(1912年)9月13日で、その日に乃木さんは自刃していますから、この問答の時には、乃木さんの死後約18年が経過していたことになります。乃木さんはこの時すでに「立派に自覚して」いましたが、戦死された二人のお子さんは、まだ「充分に眼がさめておらない」状況と伝えられています。

  乃木さんの自刃は、当時からいろいろと賞賛と非難の両論を巻き起こしてきました。特に、静子夫人も一緒であったことは、「道ずれ」にしたと糾弾の的になっていたと思います。静子夫人は、なかなか死にきれずに苦しんだことが、検死の結果からもわかっていました。しかし、ここでは、乃木さん自身が、静子夫人について、「少しも後に生き残ろうという考えはなく、それでは私も御一緒にと、立派な決心をしてくれました。二人の子供を亡くして居るので、世の中が厭になっていたせいもありましょう」と述べていることが注目されます。
(2013.12.27)



  28. 乃木さんと語る (その5)

 (五) お 宮 と お 墓

 前回に引き続き、まだいろいろ質問したいことがありましたので、私は重ねて10月15日午後8時半頃、新樹を呼び出し、乃木さんと私との間の中継役を命じました。何回も繰り返している中に、新樹もだんだんこうした仕事に興味をもってきたらしく、この日も大へんに歓び勇んで、この面倒な、同時に相当気骨の折れる任務についてくれたのでありました。――

 問「これは前回にもお尋ねしたことでありますが、お墓とお宮との区別について、あなたがそちらの世界で、実地に御覧になられるところを、忌憚なくお漏らしして戴きたい。どうも私の見る所によれば、現代の日本国民は、この点に関して頗る無定見……いやむしろ全然無知識に近く、甚だ辻褄の合わぬことを、一向平気でやりつつあるように考えられますが……。」
 答「それについては、先般あなたから訊ねられて、私もよく考えてみましたが、墓というものは、あれは人間界のみのもので、つまり遺骸を埋葬するしるしの場所であります。こちらの世界に墓というものは全然ない。またあるべき筋のものでもないと思います。然るにお宮は霊魂の通うところ……つまり顕幽間の交通事務所とでもいうべき性質のものであるから、それは人間の世界にあると同時に、またこちらの世界にもある。もっともこちらの世界のお宮というものは、ごく質素な、ほんの形ばかりのもので、とても人間の世界にみるような、あんな立派な建物ではありません。畏れ多いことであるが、伊勢神宮にしても、また明治神宮にしても、こちらのお宮は、何れももったいないほどご質素であります。」
 問「してみますと、人間がやたらに立派な墓を築くなどは、あれは一向詰らん事でございますな?」
 答「もちろん、私としてはそう思います。いかに立派な墓を築いてくれても、こちらに必要がなければ、一向につまらないものでな・・・・・。立派な墓は、ただ華美を好む現世の人達を歓ばせるだけのものであります。――といって、もちろん私は、全然墓を築くのが悪いというのではありません。遺族や友人が墓へ詣って、名でも呼んでくだされば、それは此方にも感じますから、死んだ人の目標として、質素な墓を築くことは、甚だ結構なことでありましょう。私はただ、あまりに華美なことをして貰いたくないというまでで……。」
 問「すでにお墓とお宮とが、そんな具合に相違したものであるとすれば、お宮詣りとお墓詣りとをごっちゃにすることは、いかがなものでしょう?」
 答「日本には、昔からその辺の区別が、立派についている筈じゃと思うが……。」
 問「ところが近頃、その区別が乱れてきているのではないかと考えられるのであります。近年大臣とか、大将とかいう歴々の人達は、何かの機会に、伊勢神宮へ参拝したついでに、よく桃山の御陵へお詣りをされるようです。これについて、乃木さんの腹蔵なき御意見を承りたいと思います。」
 答「桃山の御陵というのは、自分はもちろん少しも知りませぬが、こちらでほのかに承る所によれば、大分御立派なものじゃそうな。当局も国民一般の願望に動かされて、自然そうしたことになったであらうと思いますが、御陵というものは、畢竟御遺骸を葬った、ただのおしるしに過ぎないから、陛下の御神霊をお祀りした明治神宮とは、性質が全然違います。まして伊勢神宮と御一緒にすべき性質のものでないことは、もちろんの事であります。もしも日本の国民が、その点に関していささかも取り違えるようなことがあっては、甚だ面白くないことと思われますから、一つこの機会を以て、あなたから世間一般に知らせて戴きましょう。――こうした間違いの起るのも、つまりは神というものを本当に知っているものが、だんだん少くなった故でありましょう。私の生きている時分にも、精神作興とか、敬神崇祖とかいう言葉がよく使われたものでありますが、どうもとかく上滑りがして形式に流れ、深いところまで徹して居ぬ嫌いがあつたように思います。あなたの力で、これをもう少し何とかして戴きたい……。」
 問「私のような微力なものに、果してどれだけの効果をあげ得るか、甚だ心元なく感じますが、とにかくできるだけのことはする覚悟で居ります。乃木さんもどうかそちらの世界からお助けしていただきます。」
 答「いかにもそれは承知いたしました。しかし何分にも、まだ一向修行が足りない身であるし――それに自分は戦争の事やら何やらで、多くの兵士を殺し、人に合わせる顔がないので、なるべくは表面に引き出して貰いたくないのじゃが……。」

 この日の問答の主要なる部分は、大体上に掲げた通りでした。乃木さんのいつもながらの謙遜な態度は、一方ならず私を恐縮せしめ、「矢張り乃木さんは偉いものだ」と痛感した事でした。

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 31-35(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 霊界にはお宮はあっても、お墓はない。だから、明治神宮にあたるものは、質素な形でありながら霊界にも存在するが、明治天皇の陵である伏見桃山陵に対応するものは霊界にはない、と述べられています。遺骸を埋葬するしるしの場所であるにすぎない地上の墓というものは、霊界においても、あまり重要視してはいないようです。

 伊勢神宮にお参りしたついでに、桃山御陵にも詣でるというのは、全く性質の違うものを一緒にしてしまっていることになって、「取り違えてはならない」間違いであると指摘されているのは興味深く思われます。乃木さんはまた、ここでも、戦争で「多くの兵士を殺し人に合わせる顔がない」と述べていますが、その辛い思いには、同情を禁じえません。
(2014.01.03)



  29. 乃木さんと語る (その6)

 (六) 日本国民に告ぐ

 引き続いて私は、10月19日にも、新樹を通じて乃木さんと談話を交えました。この日私は「日本国民に告ぐ」という標題を提出して、これに対する乃木さんの回答を求めました。例によって乃木さんは、非常に謙遜で、容易に口を開こうとしませんでしたが、私から再三促がされて、やっと言葉を発せられたのでした。

 答「私はこちらの世界に引き移ってからも、非常に日本国のことは心配しております。――いや、国のこと以外には、殆ど何も知らぬといった方が通常かも知れません。そのお蔭か、自分には、いくらか日本国に今後起るべき事柄が、薄々わかっております。――しかし、それはまだはっきりと言うべき時期でもないし、また自分とても、霊界通信という仕事は一向不慣れであるから、心に思っていることを、全部そちらに通じることはできないようにも思います。で、私として目下言うべきことが甚だ少ないのは、致し方もない次第でありますが、ただ日本国民が、あまり太平の夢に慣れてはいけないとだけは、一言申し上げておきたいと思う。――自分としては、生前日露戦役において、旅順の包囲戦を引受け、もうああいう罪な仕事……つまり人殺しみたいな事は、二度と再びあっては困ると、心の底から懲り抜いております。いかに戦争の常とはいえ、沢山の兵士を亡くすれば、その人々の恨みは、自然こちらにめぐってきて、随分身を責められることになります。自分は実際二度と再び戦争などはしたくない。自分はその事を、始終神様にもお願いしている次第であります。が、やはりこれも時節というものか、どうしても、もう一度は免れない運命になっておりますようで……。自分としては、ほかに何も考えることはなく、ただ一途に日本の前途を案じているばかりでありますが、念力をこらせば、そんな事が少しはわかってきます。人間の世界の方では、どんな模様でありますな? いくらかそんな気配でもきざしてきましたかな? ――もちろん、前途に国難があると申したところで、それは決して今すぐというのではない。・・・・・毛頭慌てる必要はないのであります。またいざとなれば、自分も護国の神として、むげに引込んでばかりはおりませぬ。ただ日本国民として、この際何より肝要なのは、金鉄の覚悟であると思うのであります。日本という国は、たびたび外国と干戈を交え、悉くそれに勝利を占めているので、従って負けた国から、大へんに怨まれております。その事は幽界へ来てみてから、甚だ痛切にわかります。戦というものも、主としてこうした怨みから起ってくるもので……。こういうとあなた方は、すぐその相手は誰であるかとか、その時期は何時であるかとか、またその結果はどうであるかとか、はっきりしたことを聞きたいと思うのでありましょうが、それは私にもよくはわからん。幽冥の世界と、人間の世界とは、切っても切れぬ密接な関係で結ばれているものの、自ずとそこに区別がある。第一、時期などというものは、あれは人間の世界のもので、こちらの世界には、夜もなければ昼もなく、今年もなければ、明年もない。あるのは、せいぜいそれぞれの事件が運ばれていく順序くらいのものであります。高い神さまなら知らぬこと、自分などの境涯では、とても時期の放言などはできませぬ。同様に戦の継続期間などもよくわかりませぬ。――また人間にとって、そうした事柄は、実はどうでもよい。肝要なのは、只今申す通り覚悟一つじゃ。何時何事が起ろうとも、またそれがいかに困難であろうとも、あくまで神を信じ、あくまで君国の為に尽くす心でおりさえすれば、それで万事は立派に解決がつきます。くれぐれもあなたから、この旨を日本国民に伝えてください。私もこれから充分に修行を積み、決して国民の期待に背くようなことはせぬ覚悟でおります。いづれ詳しい事は、適当な時期を以てお伝えします。目下はまだちょっとその時期でないので……。」

 乃木さんは私の問いに応じて、まだ少々漏らされた事もありますが、今回はひとまずこの辺で打ち切ることに致します。(s5.11.17)

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 35-38(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 乃木さんは、霊界でも、非常に日本国のことを心配しているようです。「今後起るべき事柄が薄々わかって」いると述べています。そして、日本国民が「あまり太平の夢に慣れてはいけない」とも言っています。この通信が行われたのは1930年の10月ですが、その翌年の1931年9月には満州事変が起こっています。さらにその翌年の1932年には、日本は満州国建国を宣言し、1937年7月には盧溝橋事件を起こして、日中戦争が始まりました。これは1941年に始まる太平洋戦争へと続いていきます。乃木さんにはこれらのことが「薄々わかって」いたのでしょうか。

 旅順の包囲戦のような「人殺しみたいな」戦争はもう二度と繰り返したくはない。それを始終神様にもお願いしていても、「やはりこれも時節というものか、どうしても、もう一度は免れない運命になっておりますようで」と述べられているのには考えさせられます。戦前の日本では、戦争をしても「絶対に負けない」ことが強調されていましたが、負けた国からは大変怨まれていることには思いが及びませんでした。幽界へ来てからその怨みが「甚だ痛切にわかります」という乃木さんのことばは、この地上で、相変わらず紛争や戦争を繰り返している私たちすべてが銘記すべきであろうと思われます。
(2014.01.10)



  30.  幽界居住者の伊勢参宮

   (一) 最 初 の 参 拝


 手帳を繰りひろげてみると、私が初めて新樹に向って伊勢参宮の話を持ち出したのは、昭和4年8月12日のことでした。彼は私の言いつけに従って、早速幽界居住者としての、最初の伊勢神宮参拝を試みましたが、当時の彼としては、いささか荷が勝ち過ぎた嫌いがあり、その報告が委細をつくすところまでに達していない憾みがありました。記録のままを紹介すると、次の通りであります。――

 ただ今指導者のお爺さんに頼んで、伊勢神宮に参拝させて貰いました。道中は全然ヌキで、どこをどう通ったのか、少しもわかりませんが、とにかく御神苑のような所に出ました。僕は生前ただの一度も伊勢神宮へお参りしたことがないから、はっきりした比較ができませんが、とにかく絵に見た地上の伊勢神宮とは、大へんに様子が違っていますね。あたりはしんしんたる大木の杉の森で、その中に小さい白木のお宮がただ一つ、ポッンと建っているだけです。僕は何だか勝手が違ったような気がして、これが果して伊勢神宮かしら? と思っていると、お爺さんはすぐ僕の心を察して、こう言われました。
 「こちらの世界と、人間の世界とは違うのが当然だ。地上では人間の手が要るので、いろいろ付属の建物などもできているが、神界にその必要はない。神さまはちゃんとここに鎮まっておられるのだ……。」
 お爺さんがそう言われた瞬間に、丁度杉木立の茂みの中、お宮のずっと上方に、ひとりの女神・・・・・・お年はまず二十位に見える、世にも神々しい女神のお姿が、すーっと拝まれました。この神さまが、日本国をお守りくださる、一番上の神さまかと思うと、僕は自然に総身が引きしまって、思わずそこへ平伏してしまいました……。
 お爺さんの説明によると、天照大御神様は宇宙の活神さまで、人体に宿られたことはないお方だそうですね。従ってあのお姿も、仮のお姿だということですが、僕達にはまだ深いことはさっぱりわかりません……。

    浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
       潮文社、2010年、pp. 39-40(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 新樹氏が満鉄病院で急死したのは昭和4年2月28日の夕方でした。それからわずか半年後の8月12日に、和三郎先生は新樹氏に伊勢神宮を参拝させています。この時はまだ、和三郎先生は新樹氏との通信を可能にするために懸命に努めておられた頃で、「霊界通信集」4 にもあるとおり、通信相手が間違いなく新樹氏であることを確認するために参拝の報告などをさせていたのでした。

 この部分は、その時の新樹氏の伊勢神宮参拝の模様を、改めてまとめたものです。新樹氏は、この後も何回か伊勢神宮参拝を繰り返すことになります。この最初の伊勢神宮参拝では、大木の杉の森の中にポツンと小さい白木のお宮が建っているだけの簡素な佇まいに新樹氏は驚いています。そこで、神々しい天照大御神のお姿が目に入って新樹氏が平伏していますが、興味深いのは、それが「仮のお姿」だというお爺さんの説明です。
(2014.01.17)



  31.  幽界居住者の伊勢参宮

      (二)再 度 の 参 拝 (その1)


 この事があってから約9か月、昭和5年5月8日の夜に、私は再び新樹に向って、伊勢参拝を命じました。
 できるだけ報告の内容が、正確且つ豊富なることを期すべく、今回は新樹一人でなく、彼の母の守護霊・小櫻姫に頼んで、同行を求めました。その結果は果して良好で、前回に比べれば、その報告がよほど現実味に富んでいるように感じられます。双方からの報告がありますが、先ず新樹の方から紹介しましょう。――

 無事に参拝をすませてまいりました。今度はお母さんの守護霊さんに来てもらいました。守護霊さんは、今日は伊勢神宮にお詣りするのだからというので、白い装束を着ておられました。白い柔かい地質の着物で、腰の辺りをちょっと端折った道中姿です。袖ですか……袖は一向長くありません。丸味のついた短い袖で、そして足には例のように厚ぼったい草履を穿いておられました。
 僕は相変わらず洋服です……。僕は黒っぽい色は嫌いだから、薄色のものを着て行きました。ステッキは持ちません。
 先ず着いた所は、広々とした神苑の境内、純白の細かい小砂利が、一面に敷きつめてありました。僕達はしばらくそこを歩いて行きますと、やがて杉、松、その他の老木が、眼もはるかに立ち並んでいる所に出ました。
 守護霊さんが、「ちょっとこの辺で手を清めていくことにしましょう」と言われますので、あちこち捜しましたが、杉の木立のこんもりとした所に、あまり水量の多くない、一つの渓流がありました。現界の五十鈴川は、相当大きな流れだときいていましたが、どういうものか、こちらのは、そんなに大きい川ではありません。巾はやっと一間もありましょうか。しかし水はいかにもきれいです。僕達はその川で口や手を漱ぎました。
 「現界の五十鈴川は、この川に相当するのでしょうか?」
 そう僕が守護霊さんに訊ねますと、
 「さあどちらがどうなのでしょうかしら……。」
 守護霊さんにもその辺のところは不明でした。あの方も今日初めての参拝だったということです。
 それから爪先上りの坂路になり、僕達はそれをずーっと二人で上って行きました。すると間もなく、前面に白木のお宮が現われました。それが例の伊勢神宮、僕がお父さんに言いつかって一度参拝したことのある、あのお宮です。
 お宮は、今日はよほどよく念入りにしらべましたが、棟には矢張りあの千木とかいうものの付いた、だいたい地上のお宮そっくりのようです。その寸法ですか……。さあ正面の扉の所が目分量でざっと二間位のものでしょう。どうも僕は建築の事に暗いので、詳しい事はわかりかねます。お宮の周囲には、ぎっしり細かい砂利が敷きつめてありました。
 そこで僕は守護霊さんに言いました。――
 「こちらにお詣り致しましたからは、何卒天照大御神様の御姿を、ちょっとでも拝まして戴くよう、あなたからお願いしてください。」
 「承知いたしました。その通りに致しましょう。」
 守護霊さんは姿勢を整えて、少し首をさげて、瞑目して祈念をこめられました。僕もその通りにしました。
 しばらくすると、神様のお姿がお現われになりましたが、今日は前回とは違って、お宮の内部――そのずーっと奥の方です。
 「お出ましになられたから、早く拝むように・・・・・・。」
 守護霊さんから小声で注意がありましたが、そんな注意を受ける前に、僕はちゃーんと拝んでいました。綺麗といっては失礼かもしれませんが、全く綺麗な、そして気高い女神さんで、お体はあまり大きくないように拝しました。御服装は袖の長い・・・・・ちょうど平袖のような白衣をお召しになり、お腰の辺には、白い紐みたいなものを捲いて、前面で結んでおられました。御手には何も持ってはおられないようで、しかしお頸には、たしか頸飾のようなものを下げておられたようにお見受けしました……。
 僕はうれしいやら、有り難いやら、また恐れ多いやらで、胸がいっぱいでした。とても自分の勝手な祈願などの、できる心の余裕はありませんでしたよ・・・・・。
 厚く厚くお礼を申上げて、御神前を引き退りましたが、同時に神様の姿も、すーっとわからなくなりました。あたりはシーンとして、殆んどさびしいくらい、神々しさの極みというものはあんな境地を指すのかと僕は思いました。自分の体がなんだか、こう寒いような、変な気持ちでした……。
 守護霊さんは、何やらしばらく御祈念をこめておられましたが、何を祈念したのか、それはお父さんから直接にお訊きください。
 それから僕達は神苑内を出まして、別の道を通って戻ってきました。守護霊さんも一緒にお詣りができたと言って、大へんに喜んでくれました。僕も守護霊さんと一緒で、大へん力強く感じました。欲をいえば、僕が生前一度伊勢へお詣りをしていたら、比較ができて、大へん面白かったろうと思いましたが、今更どうにも仕方がありません。守護霊さんとは途中でお別れしました。
 「有難うございました」――そう言うと、もうそれっきりです。こちらの世界のやり方は、何事も甚だあっけないです・・・・・・。

    浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
      潮文社、2010年、pp. 39-45(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 昭和4年8月12日の最初の伊勢神宮参拝に続いて、昭和5年5月8日、第二回目の参拝の様子が新樹氏によって、このように伝えられています。しかも今回は、新樹氏一人ではなく、多慶子夫人の守護霊・小櫻姫が同行しています。参拝自体も大切であったでしょうが、このようにまでして、霊界通信の確立を図り、その信憑性を高めようとしている和三郎先生の熱意が感じられます。

 私は学生の時以来、伊勢神宮には何回か参拝に訪れたことがあります。確かに境内の五十鈴川の川幅はお手洗い場付近では十数メートルに狭まっていますが、それでも巾が「やっと一間くらい」の霊界の五十鈴川とは、趣が違うようです。昨年の9月に参拝した時には、新樹氏が天照大御神様の御姿を拝礼したという、本書のこの部分を思い出していました。私は霊界へ行ったら、またこの部分を思い出すことになるのかもしれません。
(2014.01.24)



  32.  幽界居住者の伊勢参宮

      (二)再 度 の 参 拝 (その2)


 今度は入れ代って、同じ参拝についての小桜姫の報告を紹介しましょう。――

 今日は子供から、是非伊勢神宮にお詣りをしたいから御同行を願いたい、という通知でございましたので、早速その仕度をして出かけてまいりました。そういう尊いお宮に詣るのでございますから、できるだけ清浄な着物をつけて行くのがよいと考えまして、そのつもりで着替えをいたしました。
 子供には途中で逢いました。その時どんな打合わせしたとおっしゃるのですか……。別にこちらでは打合わせの必要はございません。子供に逢いたいと思えば、どこにおってもすぐ判りますので……。子供は今日も洋服を着ておりました。近頃は大へん私に馴れまして、遠慮せずに、よくいろいろの事を申します。
 「お宮に行ったら、どういう風にすればよいか」だの、「お宮までは、どの位の道のりがあるか」だのと、中には随分私などに返答のできない質問もいたしますので、少し困る時もございます。
 先方へ着いてみますと、それはきれいな、広々とした神園でございましてね……。別に現界のように、柵だの何だのという区切りはありません。ただ何となく神霊の気が漂っていると申すような気分の場所――それが伊勢神宮の境内なのでございます。
 私は生前に、どこにも参ったことがございません。なにしろ物騒な戦国時代の人間でございますから……。で、無論現界のお伊勢様も、ただ人の噂にきいただけで、いかにも残念なことに思っていましたが、今回図らずも、現界で叶えられなかった望みが、こちらで叶えられることになりまして、大へん有り難いことでございました。
 境内を歩いている時に、子供が申しますには、
 「現界には五十鈴川という大きな川があるが、こちらの世界にもそれがあるかしら……。」
 ――そんな事は、私も一向存じませんので、二人で散々さがしました。すると森の奥の方のさびしい所から流れ出る、きれいな川があるのです。で、子供にもそう申しまして、口も手も漱ぎました。その時子供が
 「いかにもきれいな水だから、飲んでもよいかしら……」と申しますから、
 「それは少しも差し支えないでしょう。御神水だからたんと戴きなさい」と答えておきました。
 お宮さんは大そう立派な、白木造りの神々しい御神殿でございました。その時子供が申しますには、
 「折角お詣りしながら、神様にお目にかからないのはあまりにも残念である。第一それではお父さんに報告をするのに、具合が悪いから、あなたから是非お願いしてもらいたい」というのです。
 そこで私が一生懸命になって、御祈願を籠めますと、すぐに神さまがお出ましになられました。これまでに、私は幾度もお姿の遥拝は致しておりますが、このように近々と拝みますのは、この時が初めてでございまして、何とも有り難いことに思いました。子供も拝ませて戴きましたから、詳しい事はそちらからおききになったでございましょう。私などには、天照大御神様の御本体はよくわかりかねますが、承わるところによれば、この神様は、日本では自国の御先祖の神さまとして崇められているものの、実は日本だけの神さまではなく、世界をお守りなさる、世にも並びなく尊い神さまだと申すことで、お姿も国々によって、いろいろに変えられると申すことでございます。私がこの神さまに、何を御祈願したとおききでございますか? ――私は一番先に、日本の国を御守護遊ばされるようにお祈り致しました。その次に子供のことをお願いしました。早く立派な心になり、早く進歩ができますようにと・・・・・。私の祈願はただそれだけでございました……。

  浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 45-47(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 新樹氏の2回目の伊勢神宮参拝の様子を、同行をお願いした小桜姫からも報告してもらって、それをこうして新樹氏の報告と並べて記載している和三郎先生の霊界通信への熱意が伝わってくるようです。霊界の新樹氏や小桜姫と自由に交信しながら、一般には不可能と思われていることを現実に可能にしている大変な偉業であることに、私たちも深い感慨を抑えることができません。

 霊界の五十鈴川のきれいな水を、新樹氏が飲んでもいいかと小桜姫に聞いているのには興味をそそられます。お参りに際しての二人の服装などもかなり具体的に述べられていますから、そういう部分をすらすら読んでいますと、つい当たり前のように受け止めてしまいますが、改めて霊体の不思議さを考えざるを得ません。私たちは死んで初めて生きていることになるのだという、シルバー・バーチのことばなども思い出されます。
(2014.01.31)



   33. 幽界居住者の伊勢参宮

      (三)乃木さんと同行


 新樹の第三度目の伊勢神宮参拝は、ほんの最近のもので、この時は乃木大将と同行しました。
 昭和6年正月元旦――この日は午後から雪で、年賀の客も杜絶え、いかにも落付きがよかったので、私は新樹を呼び出して、こんな事をいいつけたのであります。――
 「今日は元旦であるから、この際もう一度伊勢神宮参拝をやってもらいたいと思うが、それについては、今度は一つ、乃木さんをお誘いしてみてはくれまいか。是非御同行をお願いしたい――と言ったら、乃木さんはきつと承諾されるに相違ないと思うが……。」
 すると間もなく新樹からの返答があった。――
 早速乃木さんにその旨を通信しましたが、乃木さんは非常なお喜びで、こんな御返答を寄越されました。
 ――「私は生前は度々伊勢神宮へお詣りをしたものだが、こちらの世界へ来てからは、お詣りどころか、まだそんな気分にさえなれなかった。あんたは実に良い事を教えてくださった。そう言われてみれば、私も是非お詣りをしたくなった。自分の方がずっと先にこちらの世界に来ているのに、後の烏に先になられて、何とも面目ない次第である……。」
 そんな御返答なので、僕は早速乃木さんと御同行する事に話をきめました。ではこれから出かけてまいります……。

 それから約10分の後に、新樹から報告がありました。乃木さんという新顔が加わっているので、同じ参拝でも、よほど趣の異なった箇所がありますから、多少の重複を厭わず、そっくりそのまま載せることにします。――

 乃木さんという方は、平生からあんな謹厳な方でありますから、この度の伊勢神宮参拝ということについては、よほど心を引きしめて、ちゃんとして出掛けなければならないということになりまして、軍人ですから矢張り軍服……例の青味がかったカーキ色の服に、長剣をさげて行かれました。僕ですか……僕はいつもの通り、さっぱりした洋服です。
 道すがらも、乃木さんの控え目にされているのには、僕はとても恐縮してしまいました。どうしても乃木さんは、僕に先に立てと言われるのです。
 「私が先に亡くなったというても、こんなことはまた別じゃ。あなたの方から誘われたのじゃから、どうか案内してください。」
 僕はさまざまにお断りしたが、どうしても乃木さんは聞き入れてくださいません。仕方がないから、僕が先に立って案内役をつとめる事になりました。
 「伊勢神宮の模様は、以前と少しも変わりません。例の小砂利を敷きつめた境内、しんしんとした大木の森、白木造りのお宮……とても素的です。乃木さんはあたりを見回して、こう言われました。――
 「大分こりぁ模様が違う。現界のお宮も結構じゃが、こちらの世界のお宮はまた格別じゃ。何という御質素さ――何という神々しさであろう。私は近頃こんな結構な、すがすがしい気分に打たれたことがない。これにつけても、こちらの世界は矢張りこちらの世界だけのことがあると思う。敬神といっても、現界の敬神とはまたわけが違うようじゃ。」
 いかにも感激に堪えないといった面持でした。
 僕達はいよいよ御神前に達して礼拝をすましましたが、その時僕は乃木さんに言いました。――
 「あなたはここにお祀りしてある神様に、お目にかかられたことがおありですか?」
 「いや、まだそんな・・・・・・」と乃木さんは非常にたまげたご様子で、「自分などの境涯で、そんな事は思いもよらぬ事じゃと思うていたが……。それとも浅野さん、このお宮では、神様にお目にかかる事ができますか?」
 「いや実は僕も最初そんな事はできないものと考えていましたが、父から言われて、お宮の前でその事を念じましたら、すーっと神々しい女神のお姿がお現われになり、非常にびっくりしたことがあるのです。その後も一度、母の守護霊と同道で参拝して、お姿を拝みました。甚だ差出がましいようですが、折角ご同道したことですから、僕が一つ神さまにお出ましを願い、あなたにも拝見できるようお許しを願いましょう。」
 乃木さんはいよいよびっくりし、
 「そんな事ができるものなら、浅野さん、是非そうしてください。」
 そこで僕は御神前に額づいて、誠心こめて神さまに祈願しました。――
 「今日はこの方をお連れいたしましたから、度々のことで恐れ入りますが、何卒神様のお姿を拝ましてください……。」
 御所願を終えるか終えない中に、忽ちお宮の後方の一段高い所――前には立木の茂みの中でしたが、今日はそれとは違って、何もない虚空の一端に、いつもと同じく、白衣を召された女神のお姿がお出ましになりましたので、僕は乃木さんに
 「早く拝むように……」と通知しました。
 そうすると乃木さんは、はっとしてしまって、急いで、というよりもむしろ慌てて、低く低くお辞儀をしてしまいました。
 「乃木さん、拝みましたか?」僕は気にかかるので、下方を向いたまま訊ねますと、
 「拝みました……。何とも有難うございました・・・・・・。」
 という返答です。
 再び上を仰いだ時には、もう神様のお姿は消えていました。何分乃木さんの喜び方は非常なもので、「大へんに結構なことをさせて戴いた」と言って、涙を流して僕にお礼を言われます。僕は乃木さんに言いました。
 「僕にお礼なんか御無用です。幽界の居住者として、これしきの労をとるのは当然の事ですから……。今後も折があったら、またどこかへ御案内を致しましょう。また僕の知らないところは、どうか御指導をして下さるように……。」
 僕は乃木さんといろいろお約束をして、実に良い気持でお別れしました。乃木さんという方は、あんな老人で、生前地位の高かった方だから、僕を子供扱いにでもするかと思っていましたのに、かえって僕を先輩扱いにしてくれるので、僕は実に恐縮してしまいました。連れ立って歩いても、甚だ気持のよい方で、今後もあんな風の人と一緒に出掛けたら、面白いだろうと感じました・・・・・。」(昭和6年1月5日)

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 48-52(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 新樹氏は乃木さんとこのように3回目の伊勢神宮参拝をしています。乃木さんは非常に喜んで同行を承諾し、新樹氏は和三郎先生に、「ではこれから出かけてまいります」と報告していました。それから、地上の時間で10分の後に、もうこのような参拝の際の状況が、乃木さんの軍服姿や、「大分こりぁ模様が違う」という乃木さんの印象などを含めて伝えられていることが興味深く思われます。

 そして、ここでは新樹氏が、乃木さんのために神様のお出ましをお願いしています。神様のお姿が拝めると聞かされて乃木さんは驚きました。「そんな事ができるものなら、浅野さん、是非そうしてください」と乃木さんは言っていましたが、おそらく半信半疑であったでしょう。しかし実際に白衣を召された女神のお姿を拝して低く低くお辞儀をしたあとは、「拝みました……何とも有難うございました」と涙を流して感激しています。その姿が眼に見えるようです。
(2014.02.07)



  34.  ある日の龍 宮 (その1)


 昭和6年の秋には満州事変が突発したため、幽明交通の機関も、ある程度そちらの方面に向けられましたが、しかし私の主なる研究題目は龍宮界であって、新樹は、彼の母の守護霊と共に、絶えずその仕事に使われました。
 初めての龍宮行は、9月22日の午後に行われました。新樹はその時の模様を、つぎのように通信してきております。――

 今日は突然お母さんの守護霊さんから通信がありまして、これからあなたも私と一緒に、龍宮界へ出かけるのです。いろいろあちらで調べることがある、と殆んど命令的な口振りなのです。僕はその権幕にいささかびっくりして、どうしたわけで、急にそんな話が持ち上ったのかと訊いてみますと、守護霊さんのおっしゃるには、これはあなたのお父さまからの御依頼です。龍宮というところは、いかに書物で調べても、他に尋ねてもどうしても腑に落ちない箇所が多くて困るから、是非子供を連れて行って、詳しく調べさせてくれとの御註文で、それで急に思い立ったのだ、というご返事なのです。僕は龍宮なんて、そんな所が果してあるか無いかも知らない位で、一向自信がありませんでしたが、守護霊さんがえらい意気込みなので、僕はおとなしくついて行くことにしました。間もなく守護霊さんは、僕の住居へ誘いにきてくれました。いつもの通り、足利時代の道中姿で、草履を穿いておられます。僕は例によって洋服です。……龍宮行きだからとて、洋服を着ていっていけないという理由も、別になかりそうに考えたからです。
 それにしも、龍宮探険とは随分振っていると、僕はいろいろ考えました。龍宮は一たい海の底の世界なのかしら……。子供の時分に読んだお伽噺には、確かにそう書いてあつたと思うけれど、もし海底だとすれば、どんな按配にそこへ潜り込むのかしら……。これは少々薄気味わるくもあるが、同時にまた面白い仕事でもある・・・・・。ことによると、大きな海亀が自分達を迎えに来るかもしれない……。僕は思案に余って、とうとう守護霊さんに龍宮はどんな所かと伺いを立てると、守護霊さんは軽くお笑いになって、あなたはいろいろの事を想像していられるが、黙ってついてお出でなさい。行ってみれば、どんな所かすぐわかります、と言って、一向くわしい説明をしてくださらない。僕の好奇心は自然に最高調に達したわけです。――先方についてからの見聞記は、僕よりも守護霊さんの方が詳しいかと思いますから、なるべく守護霊さんを呼び出して、一度その物語をきいてください。足りないところがあったら、僕が後で補充することにしましょう。

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 53-55(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 「龍宮」というのは、私たちの理解では浦島太郎や乙姫様と結びついたお伽話の世界です。新樹氏も、お母さんの守護霊さんから「これからあなたも私と一緒に龍宮界へ出かけるのです」と言われた時には、さぞ驚いたことでしょう。でも、そんな所があるのかないのかもわからなかった新樹氏も、守護霊さんから龍宮へ行くことになった経緯を聞かされて、おとなしく付いていくことになりました。

 お伽話では、龍宮は海の底にあることになっていますから、新樹氏が、そこへどのようにして行くことができるのかと守護霊さんに訊いているのは、もっともな疑問です。しかし、守護霊さんは「行ってみれば、どんな所かすぐわかります」と言って、教えてはくれません。実際に龍宮へ着いてからの状況は、このあと、守護霊さんから詳しく報告されることになりますが、私たちも大いに関心を持って、その報告に耳を傾けたいと思います。
(2014.02.14)



  35.  ある日の龍 宮 (その2)


 折角新樹がそういうものですから、私は妻の守護霊を呼び出すことにしました。守護霊はいつもより気乗りのした調子で、元気よく私の問いに答えるのでした。――

 問「今日はいろいろ御骨折でした。今ちょっと子供からお出かけの様子だけをききましたが、子供も龍宮には大分面喰った模様ですね。」
 答「はい、大変におかしうございました。子供は、龍宮の話は幼い時分にお伽噺で聞いたり、また唱歌でも習ったりしたが、一体本当にそんな所があるのかしら。……よもや亀が迎えにくるのではあるまいなど、いろいろの空想を起して気を揉むのでございます。あまりおかしうございますからら、わざと説明せずに少しじらしてやりました。地上の人は、龍宮は海の底だと考えていますが、実はそうではありません。龍神さまは海にも、陸にも、ここにでもおられます。龍神さまと海との間に、特別の関係なんか少しもございません。龍宮とはつまり龍神様のお宮のある世界ということでございます。
 問「一体、龍神の本体は何なのですか?」
 答「先へ行ってお調べになれば、追い追いおわかりになりますが、龍神様はつまり神様……元の生神さまで、一度も人間のように肉体をもって、地上にお現れになられたことのない方々でございます。で、そのお姿なども自由自在でございます。私が拝みますと、その御本体はやはりわれわれ同様、白い丸い美しい球でございますが、何かの場合に、力強いお働きをなされます時は、いつもあの逞しいお姿……あの絵にあるような龍体をお現わしになられます。それから、私どもが龍宮へ参ってお目にかかる場合などには、又そのお姿が違います。御承知の通り、あの神々しい理想のお姿……それはそれはご立派でございます。」
 問「すると龍神さんは変化することの名人で、到底われわれ人間には歯が立ちませんね。」
 答「なにしろ神様と人間とは、大へんに段階がちがいますからね……。」
 問「すると、すべての神様は、悉く龍神さまと思えばよいわけでしょうか?」
 答「さあ、すべてという事は、到底私などの分際で申上げかねますが、少くとも、人間受持ちの神様は、龍神さまであると考えてよろしいと存じます。」
 問「そしてその龍神さまと人間との関係は?」
 答「地上の人類は、最初はみな龍神様の御分霊を戴いて生れたように承っております。つまり龍神さまは、人間の霊の御先組さまなのでございましょうね……。」
 問「いや大体見当がついてきました。詳しい説明は先へ行って伺うことにして、早速龍宮探検のお話を願いましょうか。」
 答「承知致しました。では申上げます……。あれから私達二人は、なにかと話をしながら、随分長い道中を致しました。白い浄らかな砂地の大道、それがずーっと見渡す限り続いております。歩いても歩いても、なかなか歩ききれそうもなく感じられましたが、つまり私達の境涯と、龍宮の所在地とは、それほどまでに懸隔があるのでございましょう。それでもとうとう辿り尽くして、ふと彼方を見渡しますと、行く手遥かに龍宮の建物が夢のように浮び出ました。私にはさして珍らしくもございませんが、それを発見した時の子供の驚きと歓びは、大へんなものでございました。
 「やあ大きな門がある! いくらか旅順方面にある中国式の門に似ているな。やあ内部の方には大きな建物がある! 反り返った棟、朱塗の柱廊、丸味がかった窓の恰好――こいつも幾らか中国趣味だ。いやどうも素的だ……」としきりにはしゃいでおりました。」
 問「さぞ久しぶりで、子供も気が晴れ晴れとしたでしょう。元来陽気な性質の子ですから、たまには面白い目にも逢わしてやりたいと思います。」
 答「その通りでございますとも! それには今度の龍宮見物は、大当たりでございました。伊勢神宮への参拝などとはまた気分が違います。伊勢は世にも尊い神様のお鎮まりになられるところで、身が引きしまるような神々しい感じに打たれますが、こちらは、立派ではあるが、何やらその、そう申しては相済みませぬが、面白い、晴々しい、親しみの深い感じが致します。」
 問「お話を伺っただけでも、ほぼその状況が察せられます。境内もさぞ立派でしょうね。」
 答「そりぁ立派でございます。随分広いお庭があって、そこには塵一つとどめません。樹木は松、杉、檜その他がほどよくあしらわれ、一端には澄み切った水を湛えた、大きな池もございまして、それには欄干のついた風雅な橋が架っております。すべて純粋の日本風の庭園でもないが、さりとて中国風でも、また西洋風でもない。矢張り一種独特の龍宮風でございます。大きな、面白い恰好の岩なども、あちこちにあしらわれております。裏の方は、こんもりと茂った山に包まれて、なかなか奥深く見えます。が、概して神社と申すよりか、むしろ御殿……御住居といったような趣が漲っております。で、子供も大へんに陽気になりまして、生前かねて噂にきいていた龍宮の乙姫様に、早く合わしてくれと申します。私も今日は是非、乙姫さまにお目通りを願いたいと思いました…‥」

  浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 55-58(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 ここでは、本当の龍宮は海の底にあるのではないことがわかります。龍宮とは龍神様のお宮のある世界ということで、龍神様というのは人間受持ちの神様であり、人間の霊の御先祖さまであるといわれています。守護霊はすでに龍宮へ行ったこともあり、「神々しい理想のお姿」の龍神様にもお目にかかっているようです。融通無碍にその姿を変えることができますが、その御本体は、やはりわれわれ同様「白い丸い美しい球」であるとも述べられています。

 瞬時にどこへでも行ける霊界で、龍宮は、「歩いても歩いても、なかなか歩ききれそうもなく」遠くに感じられるというのは、興味深く思われます。大きな門をくぐると大きな建物があって、その造作がいくらか中国趣味で素敵だと、新樹氏がはしゃいでいたと聞いて、「たまには面白い目にも逢わしてやりたいと思います」と言っておられた和三郎先生もきっと喜ばれたことでしょう。新樹氏は、このあと、いよいよ乙姫様にお目通りすることになります。(2014.02.21)



  36.  ある日の龍 宮 (その3)


 問「乙姫さまと申すと一体どなたのことで。」
 答「それは豊玉姫さまのことでございます。私の方の系統の本元の神さまで、そう申しては何でございますが、この方が龍宮界の一番の花形でいられます……。」
 問「それで、あなた方は、その豊玉姫にお会いなされたのですか?」
 答「はい、お目通りを致しましたが、それまでには順序がございます。まず御案内を頼む時に、子供と私との間にひと悶着起りました。私達は正面のお玄関――立派な式台のところに立っていましたが、私が子供に向い、あなたは男の身で、今日の責任者だから、御案内を頼むのはあなたの役目だと申しますと、子供はもぢもぢと尻込みをしていました。「僕は新前だから駄目です。きまりが悪い……。」そんな事を申して居るのです。
 致し方がございませんから、「私が御免ください」と申しますと、すぐに一人の年若い侍女が取次に出てまいりました……。」
 問「年若の侍女と申して、幾歳位の方です?」
 答「さあ、ざっと 16歳位でもありましょうか、たいそう品のよい娘さんで、衣裳なども神さんのお召しになられるような、立派なものを着ておりました。」
 問「その取次の女だって、本体はやはり龍神なのでしょうね……。」
 答「むろん龍神さんです……。」
 問「昔、彦火々出見命が龍宮へ行かれた時にも一人の女が出てきたように古事記に書いでありますが、矢張り同一人物ではないでしょうか?」
 答「さあ、それは何ともわかりかねます。事によったら同じ方かも知れません。とにかく私から早速来意を申しました。
 『私達はかくかく申すもので、この子の父親からの依頼により、今日はわざわざ龍宮探検に参りました。お差支えがなければ、何卒乙姫様にお目通りを許されたい、とそうお取次をお頼みします……。』
 その辺の呼吸は、少しも人間の世界でやるのと相違はございません。女は一礼して引込みましたが、間もなくまた姿を現わして
 『乙姫さまには、その事をとうに御存じでいらせられます。どうぞお上りくださいませ』と申します。
 で、私は草履、また子供は靴を脱いで式台にのぼり、導かれるままに、長い廊下をいくつもいくつもくねくねまわって、奥殿深く進みました。途中子供は小声で私に向い、
 『僕は生前一度も宮中などへ招ばれたことはなく、他の風評をきいて羨ましく思っていたものです。しかし龍宮の御殿へ招ばれたのは、世界中で恐らく僕一人でしょう。そう思うと僕は鼻が高いです。』
 ――そんな事を申して歓んでおりました。よほど子供は身にしみてうれしかったこととみえます。」
 問「それからどうしました?」と私もつい急き込んで尋ねました。

 私から催促されて、守護霊は例のくだけた調子で、早速その先を物語りましたが、それは相当現実味を帯び、幾分人を肯かせる点もないではありませんが、さてその片言隻語のうちに何やら人間離れのした、何やら夢幻劇的色彩らしいものが、多量に加味されているのでした。取扱う事柄が事柄なので、こればかりはどうあっても免れない性質のものかもしれません。
 取次の女によって、二人がやがて案内されたのは、華麗を極めた一つの広間なのでした。例によってそれは日本式であると同時に、また中国式でもあり、そのくせ、どこやら地上一切の様式を超越した、一種特有の龍宮式なのでした。
 眼の覚めるような丹塗の高欄、曲線美に富んだ丸窓、模様入りの絨毯、そこへ美しい卓子だの、椅子だのが程よくあしらわれて、何ともいえぬ朗かな感じを漂わしている。上の格天井がまた素晴らしく美事なもので、その中央の大きな桝形には、羽翼の生えた、風変わりの金龍が浮き彫りにされている……。
 室内にはいろいろの装飾品も置いてありました。先ず目立って見えるのは卓上の花瓶、それに活けてある大輪の白い花は、椿のようであって、しかも椿ではなく、えもいわれぬ高い香が、馥郁としてあたりをこめる。床の間らしいところには、美しい女神の姿を描いた掛軸がかかっていて、その前に直径五、六寸の水晶の球をあしらった、天然石の置物が置いてある……。
 二人が与えられた椅子に腰をおろして待つ間ほどなく、ふと気がついてみると、いつのまにやら乙姫様は、もうちゃんと室内にお現われになっておられるのでした。妻の守護霊は、その時の状況をこう述べるのでした。――

 「あの時はまことに意外でございました。乙姫様は、当たり前に扉を開けて、そこからお出ましになられたのでなく、こちらが気のつかない中に、すーっと風のように、いつのまにやら、われわれの頂戴した卓子から少し離れた、上座の小さい卓子にお坐りになっておられたのです。で、私達は急いで椅子を離れて御挨拶を申上げました・・・・・。
 乙姫様は申すまでもなく、龍体をお持ちの方でございますが、この場合龍体では勝手が悪うございますので、いつもの通り、とてもおきれいなお姫様のお姿でお合いくださいました。そのおきれいさは普通の人間のきれいさとは違います。何と申してよいやら、すべてがすっきりと垢抜けがしており、すべてが神々しく、犯し難い品位を具えておられます。
 目、鼻、口元と一つ一つお拾いすれば、別にこれぞというのではございませんが全体としてとてもご立派で、人間の世界には、恐らくあれほどの御器量の方は見当たらないかと存じますね。体格もお見事で、従ってその御服装が一段と引き立って見えます。
 下着は薄桃色、その上に白い透き通った、紗のようなものを羽織っておられますので、その配合が何ともいえぬほど美しうございます。お腰には白い紐のようなものを巻きつけ、それを前面で結んで、無雑作に下げておられます。すべてが至極単純で、他に何の飾気もない。それでいて、何ともいえずお綺麗なのでございます。
 御年輩は、左様でございますね、やっと三十になるかならずというところでございましょうか。もちろん娘さんという風ではなく、奥様らしい落ち着きが自然に備わっておいででございます……。」

 それから来訪の二人は、早速乙姫さまに向い、私の代理として短刀直入的に、いろいろの事を質問したのでしたが、乙姫さまは絶えずにこやかに、人間らしい親しみをもって、気軽くそれ等を受け流されました。なるべくありのままに、その時の問答を写し出してみましょう。

  浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 59-63(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 龍宮に着き、玄関で、守護霊から案内を乞うようにと言われて、新樹氏が、「僕は新前だから駄目です。きまりが悪い」と言ってもぢもぢと尻込みをしていたというのには微笑を誘われます。それで守護霊が、お取次ぎの侍女に来意を告げると、侍女は一礼して引込みますが、間もなくまた姿を現わして、乙姫さまには、二人の来意を「とうに御存じでいらせられます」と答えています。壮麗で霊的な雰囲気が伝わってくるようです。

 乙姫様は龍体では勝手が悪いので、新樹氏たちの前には美しいお姫様の姿で現われました。人間の美しさとは違って、すべてが神々しく、犯しがたい品位を具えておられるというのは、納得できるような気がします。それにしても、人間界とは次元の違う龍宮の建物や室内調度品の素晴らしさのほかに、乙姫様の美しさや、見事な体格、服装などが、これほどまでに細やかに、かつ具体的に日本語で伝えられていることに、改めて驚きと畏敬の念を抑えることが出来ません。(2014.02.28)




  37.  ある日の龍 宮 (その4)


 最初の挨拶が済んだ時に、対話の糸口を切られたのは乙姫さまでした。――

 「あなた方お両人は、人間世界からの使者として、研究のために、わざわざこちらにおいでなされたのであるから、こちらでも大切に取扱って上げねばなりませぬ。――ただ龍宮というところは、なかなかこみ入ったところで、一度や二度の訪問で、すっかり腑に落ちるというわけにもいきませぬから、あまりあせらすに、ゆっくりお仕事にかかってもらいます。私で足りぬところは、それぞれ受け持ちの者に引き合わせて答えさせます。今日は何ということなしに、よもやまの話なりと致しましょう……。」
 本家の奥方が、お目通りにまかり出た親戚の者どもに向かって、やさしく話しかけるといった按配です。今日初めて龍宮訪問を行なった新樹は、これが幼い時に耳にした、あのお伽話の乙姫さんかと思うと、不思議で不思議でたまらなかったらしく、早速質問の第一矢を放ったのでした。――
 「不躾なことをお尋ねしてはなはだ恐縮ですが、あの浦島太郎の龍宮のお伽話というのは、あれは事実譚なのでしょうか? 僕は父に報告する義務がありますし、今日はまた龍宮訪問の第一日でもありますし、かたがた一つ記念に詳しいお話を伺いたいもので・・・・・。」
 帰幽後間もない、うぶな若者から、いきなりこんな質問を発せられて、さすがの乙姫さまも思わず、ホホとお笑いになりました。
 「あんなことは大概人間の作り事、龍宮が海の底にあると思うから、自然に亀などもお引き合いに出されたのです。龍宮が海の底にあるのでもなく、また陸の上にあるのでもなく、それらすべてからかけ離れた、一つの別世界であることは、あなたにそろそろもうお分かりになったでしょう。人間というものは、自分の智慧から割り出して、いろいろ面白くこじつけるのがお上手です。あのお伽話よりか、古事記とやらいう書物に載せてある龍宮の話の方が、はるかに事実に近いようです・・・・・・。」
 「して見ると、あの古事記の彦火々出見命の龍宮行も、お伽話の玉手箱の物語も、その種はつまり一つなのですね!」と新樹は驚ろきの眼を見張り、
 「それで幾らか僕にも見当がついてきました。彦火々出見命さまも、浦島太郎も、どちらも龍宮の乙姫さまと結婚され、そしてどちらも大へん仲良くお暮しになったことになっている……。」
 新樹がそう言いますと、乙姫さまは、恥ずかしそうにさっとお顔を赤らめて、さし俯かれたのでした。やはり神さまでも女性は女性、どこまでもお優さしいところがあるらしいのです。
 それから、ちょっと主客の間の言葉がとぎれましたが、それでも乙姫さまは、すぐに面を正して言葉を続けました。――
 「私が結婚した事は、あなたの今言われたとおりであるが、しかし話はただそれだけであって、後は大てい人間が勝手に作り上げたものに過ぎません。また自分たち龍神の夫婦関係というのは、人間の夫婦の間柄とは大へんな相違で、いわば霊と霊の和合なのです。そこは充分のみ込めるように、篤と人間の世界に伝えて貰います。」
 「畏まりました」と新樹は殊勝らしく答えました。「ただそれにつけて伺いたいのは、乙姫さまの御主人さまのお名前は、何と申し上げてよろしいのでしょうか。やはり彦火々出見命様とおっしゃられるのですか?」
 「そう申し上げてよろしいのです。――もっとも名前というものは、ただ人間に取って必要な一つの符牒であって、こちらの世界には、全然その必要はないのです。心に思えばそれですべての用事はたちどころに用が足りてしまいます。この事もよく取違いせぬよう、人間界に伝えてください。」
 「承知致しました……。それでその彦火々出見命様ですが、古事記に書いてある所によると、御同棲後3年ばかり、故郷忘れ難く、そのまま龍宮界を立ち去られたように伝えてありますが、あれは一体どういう次第なのでありますか。お差支えなければ、その真相をお漏らしになっていただきたいもので……。」
 すると乙姫さまは、今までよりもずっとしんみりとした御様子で、こう語り始められたのでした。――

  浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 63-66(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 龍宮で乙姫様から「今日はよもやまの話なりと致しましょう」と優しく声をかけられた新樹氏が、「不思議で不思議でたまらなかったらしく」思ったのは無理はありません。そしてまず訊いたのは、あの浦島太郎のお伽話が事実かどうかということでした。乙姫様は笑って、あれは人間の作り話で、龍宮は海の底にあるのではなく、海や陸からかけ離れたひとつの別世界だと答えます。その乙姫様も、結婚された話を持ち出されますと、さっと顔を赤らめて、うつむかれていました。

 日本神話では、彦火々出見命は天照大神のひ孫にあたる山幸彦として知られています。海で失くした釣り針を捜して龍宮へ赴き、豊玉姫の美しさに魅了されて結婚したことになっていますが、豊玉姫がその後の海辺の産屋で「姿を見ないでほしい」と言ってワニざめの姿で出産したというような話を含めて、ご本人から、「人間が勝手に作り上げたもの」と否定されました。彦火々出見命と結婚したことだけは認めていますが、ここでも乙姫様は、私たちが誤解しないように、龍神の夫婦関係というのは霊と霊との和合であることを強調しているようです。(2014.03.07)




  38.  ある日の龍 宮 (その5)


 「あれもやはり地上の人が、例の筆法で、面白く作り上げたものなのです。新婚の若い男女が、初めて同棲することになった当座は、たれしも万事をよそに、ひたすら相愛のうれしい夢に耽ります。これは肉体の悩みを知らぬ霊の世界ほど、一段とその感じが強いともいえます。が、恋愛のみが生活のすべてでないことは、こちらの世界も、人間の世界も何の相違もありませぬ。
 女性としては、もちろんいつまでもいつまでも、良人の愛にひたり切っていたいのは山々であるが、男性はそうしてのみも居られませぬ。こちらの世界の男子として何より大切なのは、外の世界の調査探究――それがつまりこちらの世界の学問であり修行であるのです。わたくしの良人も、つまりそのために、まもなく龍宮を後に、遠き修行の旅に出かけることになられました。
 もちろんそれはただ新婚の際に限ったことではありません。その後も絶えずそうした仕事を繰り返しておられます。そうした門出を送る妻の身は、いつも言い知れぬさびしい、さびしい感じに打たれ、熱い涙がとめどもなく滲みでるもので、それが女性のまことというものでしょう。私とてどんなに泣かされたか知れませぬ。
 いかに引きとめても、引きとめられぬ男の心……別れのつらさ、悲しさは、全く何物にもたとえられぬように思いますが、しかしその中に時節が来れば、良人は再び溢れる愛情を湛えて妻の懐に戻ってまいります。会っては離れ、離れてはまた会うところに、夫婦生活の面白い綾模様が織り出されるのです。
 私の良人は、もともと龍宮の世界のもので、従って他の故郷などあろう筈がありませぬ。あれはただ人間が、そういう事にして、別れる時の悲しい気分を匂わせたまでのものです。まんざら根拠のない事でもありませぬが、しかし事実とはよほど違います。一口にいうと、大へんに人間臭くなっていると申しましょうか……。」

 こんな話をされる時の乙姫様の表情は、実に活き活きとしていて、悲しい物語りをされる時には、深い愁いの雲がこもり、うれしい時には、またいかにも晴れ晴れとした面持ちになられるので、そのすぐ前で耳を傾けている二人の感動は、とても深いものがあるのでした。

 「そんなものですかなぁ」と、新樹は生前の癖で、両腕を胸に組みながら感歎の声を放ちました。
 「とにかく僕はそのお話で、ようやく幾分か疑問が解けたように思います。人間は物質世界の居住者、それが龍宮世界の居住者と同棲するという事は、どうしても道理に合いませんからね……。つまり彦火々出見命さまは、現在でも依然こちらの龍宮世界に御活動遊ばされているわけなのですな……。」
 「もちろん引き続いて、こちらで御修行をつまれたり、日本国の御守護を遊ばされたりしておられます。」
 「古事記には、豊玉姫様のお産の模様が書いてありますが、あれはどんなものですか、やはり人間の大衆文芸式の想像譚でありますか?」
 「あれだけは、不思議によく事実に合っております。身二つになるということは、こちらの世界でもやはり女性の大役、その際には、自然龍体を表わし、たったひとりで、巌窟の内部のような所で子供を生み落すのです。しかしそれが済んでしまえば、龍体は消えて、再び元の丸い球になります。」
 「赤ン坊にお乳をのませるというような事は……。」
 「そんな事は絶対にありません。生れた子供はすぐ独立して、母親や指導者の保護の下に修行をはじめるのです……。」
 「そうしますと、龍神の世界には、一家団欒の楽しみというようなものは無いのですね。」
 「無いことはないが、人間のように親子夫婦が、一つの家に同居するというような事はないのです。思えばすぐ通ずる自由な世界に、同居の必要がどこにありましょう。あなたも早くこちらの世界の生活に慣れるように努めてください。無理もないことであるが、まだどうやらあなたは、地上の生活が恋しいように見えます……。」
 「全く仰せの通りで……」と新樹はいささか沈んだ面持ちで、「僕にはまだ、こちらの世界の生活が、しっくり身につかないで仕方がないのです。今日初めて龍宮へ連れて来ていただいても、何となしに現実味にとぼしく、これが果してほんものかと思われてならないのです。立派な建築を見ても、それが何となく軽く、何となくどっしりと落ち着いた気分がしない。何やら不安、何やら物足りないように思われるのです。いつになったら、僕に真の心の落ち着きができましょうか?」
 「月日が重なるにつれ、修行が加わるにつれ、心の落ち着きは自然とできてきます」と乙姫様はやさしく新樹を労わってくださるのでした。
 「あなたが龍宮で学ぶべき事は沢山ある。気兼ねせず、いつでも尋ねて来られるがよい。決して悪いようには計らわぬほどに……。が、初めての訪問でもあるし、今日は二人ともこの辺で引取ったらよいでしょう……。」

 二人ははっとして恭しくお辞儀をしたが、再び頭を上げた時には、いつしか乙姫様の姿は室内から消えてしまっていたのでした。

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 66-70(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 ここでは、乙姫様が結婚後、夫君が龍宮を離れて修行の旅に出られることがあることについて、しんみりした調子で語り始めていますが、もちろんこれは、多慶子夫人の口を通じて伝えられていることです。それに対する新樹氏の質問なども同様です。新樹氏の傍にいるはずの守護霊は、黙って乙姫様と新樹氏の対話に耳を傾けているようです。興味深いのは、その対話のことばだけではなく、乙姫様の表情やそのすぐ前で深く感動している二人――新樹氏と守護霊の様子なども、多慶子夫人の霊眼によって詳細に捉えられていることです。

 乙姫様は、龍神の夫婦関係というのは霊と霊との和合であることを強調していましたが、お産については、「身二つになるということは、こちらの世界でもやはり女性の大役」と否定してはいません。そして、お産の際には、たった一人になって「巌窟の内部のような所で子供を生み落すのです」とも述べています。「生れた子供はすぐ独立して、母親や指導者の保護の下に修行をはじめるのです」とありますが、これは、この世でも、生まれたばかりの赤ちゃんが魂の領域では立派に成熟した大人であるといわれたりするのと関連するのでしょうか。(2014.03.14)





  39. 新樹の通信 ―第3編―


    目 次

       はしがき
  1. 帰幽後の一仏教信者
  2. 帰幽後の一キリスト教徒
  3. 幽界人の富士登山
  4. 幽界の音楽修行
  5. 父の臨終を視る
  6. 天狗探検譚



  40.  は し が き


 私が『小桜姫の通信』を受取りつつある間にも、同一機関を通じて亡児・新樹からの通信は間断なく現われつつありました。前者は、相常長い歳月に亙る幽界居住者の古い思い出話で、自ずからそこにまとまりがあり、また一つの見識もありますが、後者は、経験も思慮も乏しい新帰幽者のその折々の感想、または見聞の通信で、何れも断片的、即興的の性質を帯びており、時には随分稚気に富んだ個所もあります。とも角も私としては、通信の都度、これを記録に留めておきましたので、今では数冊のノートブックが埋まってしまい、分量からすればすでに相当なものであります。今後これが何年続き、そして何冊のノートを埋めることになるか、考えてみれば、私ども父子の絆は随分妙なところで結ばれていると思われるのであります。
 このような次第で、新樹の通信の内容は必らずしも発表に適しません。私的関係以外にはむしろつまらないのが多く、また感情からいってもこれを公表するに忍びないのが多いのであります。私がこの敷年間、殆んど新樹の通信に手を触れなかった所以であります。
 が、ひるがえって考えれば、日本の心霊学会の現状はあまりにも貧しく、あまりにもさびしく、心霊学徒が観て首肯し得るほどの純真な霊界通信は殆んどどこからも現われていないのであります。甚だしきに至っては、こうした通信の有無さえも知らない者がなかなかに多い。これは、人間生活に取ってまことに多大の損失で、こんなことでは、到底正に来るべき新時代の先達たる資格は備わらないと言わねばなりますまい。
 果せる哉、日本の現在の思想界、信仰界は混沌を極め、また日本の現在の文学界、芸術界は低調を続けております。公平に観て、現代人士の眼光は、卑俗なる地上生活以外には殆んどただの一歩も踏み出していないのであります。
 かれを思い、これを思う時に、私はとうとう勇を鼓して新樹の通信に手をつけてみることになりました。私としてはなるべく研究者の参考になりそうなもの、またなるべく悩める人の心の糧になりそうな個所を拾い出すつもりでありますが、それが果して読者の期待に添い得るか否かは、自分ながら覚束ないのであります。くれぐれも、これは未完成な一青年からの私的通信でありますから、何卒あまり多くを期待されぬよう切望する次第であります。

                  昭和11年7月    浅 野 和 三 郎


 現代文訳者私感

 『新樹の通信』本文復刻版は三篇から成っていて、これからが最終編です。このなかには、和三郎先生のご臨終の様子を記した「5.父の臨終を視る」も含まれていて、涙を誘われます(5と6は新樹氏の伯父である浅野正恭海軍中将の編集になっています)。和三郎先生は、この第三篇をまとめるにあたり、当時の日本では、「純真な霊界通信は殆んどどこからも現われていない」状況で、「甚だしきに至っては、こうした通信の有無さえも知らない者がなかなかに多い」ことを嘆いておられますが、その状況は今日でもあまり変わっていないといえるかもしれません。(2014.03.21)